上杉周作

「若者は海外に出るべき」とは、わたしは言えない

アメリカでは、10日後の11月28日はThanksgiving(感謝祭)の日だ。

感謝祭は祝日となるアメリカ合衆国の祝祭日のひとつ。(中略)たくさんの親族や友人が集まる大規模な食事会であり、大切な家族行事のひとつと位置づけられている。特に感謝祭前日と感謝祭休日最後となる日曜日は、空港、高速道路、鉄道などの交通機関が1年の中でも有数の大混雑・大渋滞となる。一方、感謝祭当日の空港などは対照的に非常に閑散としており、感謝祭が行楽のための休日ではなく家族や親戚が集うためのものであることを物語っている。(Wikipedia)

感謝祭のすこし前になると、アメリカは自分の母国ではないということを思い出して虚しくなる。どこにも行くあてがない。家族でいまアメリカにいるのはわたしと弟だけ。インドから来たルームメイトに至っては彼ひとりだ。

アメリカは移民の国である。しかしそれでも、言葉や人脈などの「見えるハンデ」や、孤独や差別などの「見えないハンデ」から、移民一世は逃げることができない。

わたしはアメリカに14年近く住み、色んな国から来た人を観察してきたつもりだ。母国に帰った人もいたが、彼らの大半は、移民として避けられないハンデが馬鹿馬鹿しくなった人たちだった。「母国に帰れば優遇されるのに、ここでは自分はちっぽけだ」と思った人たちだった。

それに対して、アメリカに残った人たちの大半は、「ハンデがどうした」と言った人たちだった。克服して成功した人もいるし、克服できないまま苦労している人もいるが、両者に共通しているのは、そのハンデより大きなものをアメリカで見つけたということだ。

もちろん例外は多い。母国が貧しすぎて帰れなかった人もいる。就労ビザがどうしても取れなかった人、母国の衰退を食い止めるために帰った人、母国の家族が病気になった人、母国で恋人を見つけた人、母国にタイムマシン経営のチャンスを見つけた人、そもそも母国に戻るつもりだった人もいる。

上記のように選択肢が無かった人たちや、母国に宝物を見つけた人たちを対象外として考えよう。そうすると、やはり帰国する人の大半は、移民固有のハンデが馬鹿馬鹿しくなった人たちなのではないか。「自分や、自分の周りの人はそうでない」と突っぱねたい気持ちは分かるが、帰国組全体という大きな視点から想像してみてほしい。

ここは一旦わたしが正しいと仮定して本題に進みたい。正しいと思わない方は、あとから文句を言われても困るので、ここで読むのを止めるべきだ。

「海外に出よう」というスローガンは矛盾している

半年ほど前に、日本の某大手新聞社の記者様から非公式にインタビューを受けたときのことだ。

記者「上杉さんは、若い人は海外に出るべきだと思いますか」

自分「その質問に意味はあるのですか。海外に出たくない人は何を言っても聞き耳を持たないと思います。だから、海外に出たいと言っている若者を助ける仕組みを考えるほうが生産的なのでは…(後略)」

記者「なるほど。それではもう一度質問しますが、上杉さんは、若い人は海外に出るべきだと思いますか」

自分「…」

質問に直接答えなかったわたしが悪いのだが、露骨にYesを求められるのは好まない。もちろんのことながら、このインタビューは記事になっていない。

前置きはこれくらいにしよう。

いまや「海外に出よう」という言葉は溢れかえっているし、それに対する批判も飛び交っている。わたしごときの出る幕ではないかもしれないが、あえてひとつだけ言わせてほしい。

「若者よ海外に出よう」というスローガンは、国を豊かにするという意味では矛盾しているのではないか。

理由はこうだ。

  1. 海外に出て戻ってくる人の大多数は「移民になった際のハンデが馬鹿馬鹿しくなった人」で、「ハンデがどうした」と言った人たちの多くは帰らぬ人となる、という先ほどの仮定を踏まえたとする。
  2. 「若者よ海外に出よう」と叫んだ結果、「出てきたけど、ハンデが馬鹿馬鹿しくて戻ってきた」という人達が国内の多数派になり、「ハンデがどうした」と言えるような人たちが国から消えてしまったとする。

そんな状態で、本当に国は豊かになるのだろうか。

わたしはそう思わない。馬鹿馬鹿しいハンデを避ける人を集めても世の中は良くならないからだ。

たとえば、いまシリコンバレーで注目を集めているデータサイエンティストという職業があるが、それに必要な三大能力のひとつは「 データに疎い人たちの期待値を上手に設定し、彼らを味方につける政治力」らしい。

理系中の理系である分野においても、仕事上の明暗を分けるのは「馬鹿馬鹿しいこと」なのだ。そして、もし彼らの会社がデータに壊滅的に疎い会社で、政治力がより一層と必要となれば、それは彼らにとって「馬鹿馬鹿しいハンデ」となる。それを乗り越えれる人とそうでない人の差が、優秀なデータサイエンティストとそうでないデータサイエンティストの差なのかもしれない。

少し論理が飛躍しすぎなのは自覚している。馬鹿馬鹿しいハンデを避ける人と一緒に働きたいと思うかどうかは、自分の心に聞いてみてほしい。

そして「ハンデが馬鹿馬鹿しかった」と思う人が多数派の国に、世界中の優秀な人材が集まるとは思えない。

「海外経験者が増えれば、海外から人材も来る」と言うのはナイーブすぎる。身近な例を挙げるならば、日本の地方は「道路を作れば人が来る」と叫んだ結果、ストロー効果で逆に過疎化した。「地方v.s.都市部」と「日本v.s.海外」の図式は何が違うのか説明してほしい。

さらに他の国の例を挙げよう。2009年時の二次情報ではあるが、グローバル化を図ったシンガポールも、人材流出に歯止めをかけようと必死なようだ。以下は、シンガポール政府上級官僚がある高校で行ったスピーチらしい。

1996年から1999年までの4年間にAレベルをとったトップクラスのシンガポール人生徒5人に1人は、10年後の現在シンガポールにはおらず海外で働いている。また、奨学金ではなく自前で留学したシンガポール人学生の3人に1人はシンガポールで就労していない。こうした人材の海外流出問題は軽視できないまでになっている。

人材が不足しては経済発展・繁栄は望めない。シンガポールのように出生率が低く、人口の小さな小国はなおさらである。

だが、今の若者はグローバル時代に生きている。政府も海外留学・飛躍を奨励し新しい知識を吸収し経験を積むよう激励している。だが、優秀な学生が仕事や結婚などを理由に帰国する者が減り続けたら、シンガポールはどうなるのか?

フランスの名門ビジネススクール・INSEADの2006年度卒業生の進路先を国別に分けったデータを見てみると、卒業後帰国したシンガポール人は半数しかいないとのことだ。8割が帰国している日本やイギリスを除けば、海外と戦うために人材を送り出した結果、ミイラ取りがミイラになってしまうのがグローバルスタンダードなのだ。

そして何度も繰り返すが、わたしの考える「優秀な人」、すなわち「ハンデがどうした」と言える人たちは、母国には帰らない。以下は、シリコンバレー近辺在住の方の記事からの引用だ。

ちょうどスペインのコンキスタドール、コルテスが新大陸に着いた時、自分たちが乗ってきた帆船をわざと焼き尽くし、二度と後戻りできないようにしたように、自分を変革する決意を持った人は、不退転の決意で、シリコンバレーやニューヨークから離れません。

シリコンバレーやニューヨークにやっとの思いでやってきた中国人、インド人、韓国人たちの間では「母国に錦を飾る」という発想は希薄です。むしろ、現地にどう同化(assimilate)するか? ということだけを考えています。日本人だけが、東京本社の方を気にしながら仕事しているわけです。

やっとの思いで、活躍の舞台を手に入れ、現地の競争の中にもぐり込むことに成功した人間は、「日本にもシリコンバレーを作ろう!」というようなヌルい発言はしません。

留学赤字に苦しむ中国でも、エリート人材は帰ってこないようだ

2012年末までの留学による累計出国者数が264万人に達した一方で、留学から帰国した人数は109万人にとどまり、150万人を超える「留学赤字」現象が生じたと紹介。また、年々留学者数が増加する中で、年間の「留学赤字」が7万人近くにまで上ったとした。

また、近年では帰国する留学生が年々増加傾向にあるものの、その多くは非エリート人材であり、エリート人材が留学先にとどまる傾向は基本的に変わっていないとする分析を紹介した。

長くなってしまったので、ここまでのわたしの主張を手短にまとめよう。

  1. 海外に出て、戻ってくる人の多くが「移民固有のハンデが馬鹿馬鹿しくなった人」、戻らない人の多くが「ハンデがどうしたと言った人」だと仮定した場合、
  2. 国を豊かにするために「若者よ海外に出よう」と言うのは矛盾していないか? 「ハンデが馬鹿馬鹿しかった」グループが集まる国は豊かなのか?

ということだ。1か2どちらかの仮定が幾分か間違っていることはありえるだろうが、100%間違っているとも言い切れないのではないか。

以前のわたしの記事のように、数字を提示して「若者を海外に出す国は衰退する・しない」などと論を展開していないため、説得力が無いのは承知の上である。

しかし、この分野において数字をはっきり出している文章が多いかというとそうではない。実際のところ日本最大手のネット言論プラットフォームでは、グローバルマッチョという稚拙な議論しかできないPV乞食がごった返している次第である。

綺麗なことを言うと、矛盾に気づきにくくなる

ここまで書いてしまって何だが、ぶっちゃけ「海外」というキーワードにわたしはそこまで興味を示さない。それよりも、人の浅はかさについて考えるほうが、わたしにとっては面白い。

綺麗なことを繰り返して言うと、いつか人は矛盾する。先ほど紹介したのも、「若者は海外に出よう」と「国を豊かにしよう」いう綺麗なフレーズに存在する矛盾だった。

最近読んだAge-ism, Transhumanism, and Silicon Valley’s Cognitive Dissonanceという記事では、わたしが住むシリコンバレーにおける矛盾が指摘されている。それは以下のようなものである。

  1. シリコンバレーの起業文化や技術文化では若さが重要視されている。2007年、当時23歳だったザッカーバーグはとあるイベントで、「(起業には)若いことと、技術を知っていることが大切です。若い人のほうが頭が良い。チェスマスターの多くは30歳以下でしょう。車や家族は持ってないかもしれませんが、だからこそ本当に大事なことに集中できるのです」と発言したらしい。ほかにも、Yコンビネータ―を作ったポール・グレアムは、起業とは「一生分の仕事を数年に圧縮すること」と語っている。また、シリコンバレーでは35歳以上になるとスタートアップで仕事を見つけるのが難しくなるという
  2. 現在のシリコンバレーでは医療関連、すなわちヒトの寿命を伸ばす目的を持ったベンチャーが乱立している。Googleの創業者、Larry PageはCalicoという医療の会社を作り、人類の平均寿命100年を目指している前回の記事で紹介したSrinivasan氏が作った会社も医療の会社だ。

この1と2は矛盾している、というのが元記事の主張である。

つまり、「若くなければ人でなし」という文化を持つシリコンバレーが、なぜ「寿命を伸ばそう」と頑張るのか、という矛盾だ。

If you’re irrelevant at thirty, why live forever? (30歳で戦力外になるのなら、不老不死に意味はあるのか)という副題はまさに的を得ている。

綺麗なことを言い続ければ、いずれ矛盾が生まれる。その矛盾を放置しておけば、あなたの言葉は次第に軽くなってゆく。手遅れになる前に、われわれは自らを省みるべきだ。

「海外に出よう」と言うのではなく、「海外の会話に参加しよう」と言うべきなのかもしれない

最後に先ほどの話に戻るが、自分より若い人には「海外に出よう」よりも「海外の会話に参加しよう」というメッセージを送りたい。

わたしが働いている教育分野の例を挙げよう。タブレットが学校に普及しはじめ、デジタル機器を使った新しい教育の形が問われるようになってきた。もちろんこれは日本に限ったことではない。

この変化を受け、世界中の教育者たちが「新しい教育の形はどうあるべきか」とネット上で語り合っている。これはアメリカ発だが、10月にはConnected Educator Monthという、世界中の教育者をツイッターやブログでつなげようというキャンペーンが行われた

ツイッターのハッシュタグがこれらの会話の中心となっている。付記したアメリカ東海岸時間に下のハッシュタグを覗けば、世界中から教育者がツイッターで議論に参加している様子を観ることができる。

  • #edtechchat: 毎週月曜8-9pmに開催される教育とテクノロジーについての討論会。
  • #edchat: 毎週火曜12-1pm、7-8pmに開催される教育全般についての討論会。
  • #pblchat: 毎週火曜8-9pmに開催されるPBL(プロジェクトベースラーニング)についての討論会。

ほかにも200近いハッシュタグが存在し、毎週決められた時間に教育者が集う。詳しい一覧はこちら。時差の関係で参加しにくい教育者も、ツイッターのログを見ながらブログを書いて議論に参加するらしい。

一方、日本の教育者の多くがこういった会話に参加しているかというと、わたしにはそう思えない。日本の教育が特殊なのは分かるが、タブレットを始めとするデジタル教育の波は世界を同時に襲っているのだから、会話から逃げる理由は見あたらない。そもそもこのハッシュタグを日本の教育者は何個知っているのだろうか。

教育一辺倒で書いたが、他の分野でも、海外に出ることより、海外との会話に参加することのほうが大切になってきていると思う。

ここで強調しておきたいが、海外の会話に参加するのに、海外に出る必要はない。ネットさえあればいいのだ。「海外に出たほうが海外の会話に参加しやすい」と突っ込みたいのは分かるが、会話のために海外に出る必要性が年々薄れてきているのもまた事実だ。

例えば、2008年に登場したGitHubにより、プログラマーが世界で交流するのが格段に容易になった。海外どころか日本の地方からも出てこないようなプログラマーが、GitHub上の会話の中心になってたりするのは日常茶飯事だ。

というわけで、偉い人は若者に「海外に出よう」と言うのではなく、「海外の会話に参加しよう」と言うべきなのかもしれない。少なくとも、さきほどの矛盾は避けられるだろう。

結論:「若者は海外に出るべき」とは言えないが、「あなたは海外に出るべき」となら言える

さて、ここらへんで話を締めくくろう。わたしが言いたかったことは次の三点である。

  • 「海外に出よう」というスローガンは、それで国を良くしたいと考えるのならば矛盾している。海外に出たあと国に戻る人、戻らない人は誰なのかを考える必要がある。
  • 綺麗なことを言うと、矛盾に気づきにくくなる。
  • 若い人には「海外に出よう」と言うのではなく、「海外の会話に参加しよう」と言うべきなのかもしれない。

最後に誤解を招かないよう付け加えておくが、個人個人に対しては、「あなたはアメリカに来るべき」と言うことがわたしは多い。だが、これと記事で書いた内容には大きな違いがある。個人に対して「海外に出よう」と促すのと、一般論でそう語るのは違う。

「アメリカに来るべき」とわたしが言うのは、若い人の目を見つめている時だけだ。主語が「若者」でなくて「あなた」だからこそ言える言葉なのだ。日本の繁栄への想いや衰退への憂いを蚊帳の外にして、ただ一人だけを対象にしているからこそ言える言葉なのだ。

単なる個人へのアドバイスを一般論に昇華させてはいけない。「日本の発展のため」と正義感を振りかざして一般論を語った瞬間、「日本が衰退するのでは」という矛盾が生まれてしまうからだ。

そんな矛盾に気づかないまま、偉そうなことを言い続ける人にわたしは呆れてしまう。そんな残念な人は、渋谷交差点のど真ん中で、「みんな海外に行くべき」と叫ぶ自分自身を一度想像してみてはいかがだろうか。